昭和41年04月28日 朝の御理解



 値打ちのある信心を、せっかくさせてもらわなければならん、せっかくの信心を頂くのでございますから値打ちのある信心、信心させて頂いておるものとして、いつもそこんところを、あのう、思わせていただかねばならん。たとえば、新聞の、古いのほど、値打ちのないものはない、どんなにすばらしい記事が満載してあっても、もうそれが何日前の、新聞というのであったら、値打ちがないように、どういうすばらしいみ教えを、もっておる宗教でも、斬新さというか、新しさと、いわゆる。
 今月今日的な信心が、なされてなかったら、もう値打ちはない。今月今日で一心に頼めいと、今月今日で一心に頼むという事は、自分の都合のいいこと、又はその難儀なことだけを、今月今日で一心に頼めという事じゃない。どうぞ今日も商売が繁盛いたしますようにと言うて、今月今日で頼め。どうぞ一つ、平穏無事で、健康で、という事を願う事だけが、じゃない。今月今日で一心に頼めということは。
 今月今日で一心に頼めということは、わたくしの心の中に、いつも生き生きとした、斬新な、心の状態を願わしていただくのである。どんなにすばらしい教えでも、ね、教義でも、宗、そのその、持っておる宗教、そういうものを持っておる宗教でもです、斬新さをかいだら、もう古新聞と同じ事。たいした役にはたたんのです。ですから、今日一日をいかに生きるかと。ね、今日一日をいかに頂くかと、そこんところをです、わたくしはねごうていかなければならぬと思うのです。
 そこの願わしていただくところからです、私の心の中に一つのはじみてね、生き生きしたものが頂けるのです。生き生きした心が、わたくしはいわゆる和賀心であり、またわが心に繋がるのであると思うのです。今日皆さん様々な予定があるでしょう。今日はどこに言って、あそこに行ってきょうあれをしょう、これをしょうという風に、みなさんも心の中に予定があるでしょう。それを漠然として取り組まずにです、ね、それをいかに信心で取り組むかという事を、先ず考えなければなりません。
 それをいかに接するか。いかに生きるかと。ね、そこに何事にも信心になれよとおっしゃる、その何事にも信心にならせてもらえれる、ことになるわけです。まあ例えば今日は、親教会の御大祭。ね、みなさんも、ご参拝のおかげを頂かれる事だと思いますけれども、ただ漠然とお参りしただけでは、いけんです。ただ漠然と、お参りをいたしましただけではです、自分の都合のいいことばっかりがありゃいいんですけれども、まぁ例えて言うならば、心が暗くなるような事を聞いたりとかいたしましょうか、腹んたつようなことを、まぁいうなら言われたといたしましょう。
 もう、その日一日を台無しにしなければなりません。ね、例えば今日うんなら、あたくしでいうならば、今日の親教会の御大祭を、いかに頂くか。ということをです。いわゆる、今月今日で願いの焦点は。、今日、私の場合はそこにおかなければ、いかなければいけない。ですから、それがならやりでも鉄砲でもです、ね、それを、受けられるところの心の状態を、願い続けていくのですから、願い、受け止めることが出来る。
 そして、結局はおかげ頂いたと。ここにいつもおかげ頂いて、あり難かったと。有難いという事になるのです。そういうまぁひとつの、工夫とでも申しますかね、どうでも生き生きとした、斬新さを、あたくしどもの心に頂くために、まずとにかく、せっかく信心させていただいておる、その信心がです、古新聞のような状態ではなかろうかと。であったら、もう値打ちはないんだと。
 信心いただいておる値打ちはない。信心を頂いておる値打ちをです、今日一日、どのような事がある中からでも、現していく、いかなければならんという、願いを持つこと。そこが、あたくしは、今月今日で一心で頼んでいく事は、そこのことだと。ね、そして後、次にです、ね、今日は誰に会いたいと思います。どこに行きたいと思いますね、そしてあたくしどもの、体なら体のことを、まぁ、願い事という願いごと。ね、詫びるなら詫びごと、実際はその先であると。まず、斬新な生き生きした心を頂く事を、まず、先に頂かなければならんと。いうことですね。どうぞひとつ。
何日前の古新聞では、もう、新聞の値打ちがないという事。昨日はおかげ頂いても、そのことで、それで、きょうもおかげ受けられるとは限らない。今日はどの手でという、わたくしは生き生きしたものがですね、願われるところに、どのような問題が、又突発的な、その問題に接しましてもです、それをどっこいと、その元気な心で受け抜いていく。そして今日もおかげを頂いてあり難かった。信心を頂いておるという事はありがたい。という事になって来るのじゃないでしょうかね。
   どうぞ。